2011年5月5日木曜日

『新編 教えるということ』大村はま著 ちくま学芸文庫

筆者は教育者として戦前・戦後の時代を「教え抜いてきた」大先輩であり、そんな大先輩のありがたいお教えがつまった本、といった感じである。
多少時代遅れなのでは、という方もおられるかもしれないが、子供に対するまなざしの温かさ、教師としての自分に向ける目の厳しさは、いつの時代にも共通するものではないだろうか。

この本は、著者が行った4つの講演を収録している。

この本を通して私はたくさんのことを学ばせて頂いたが、特に胸に焼きついたのは、著者の「教師という職業人としての自覚」をしっかりと持ち続ける姿勢である。
教師は、一人ひとりの子供に「将来」という大きな責任を抱えている。そして、教師は勉強を教えること、ひいては指導することが仕事なのである。本来学校で学ばれるべき主な内容・課題を宿題として出すことは、その「教える」ということを放棄している、ということなのである。
教師は、閉じた世界にいる。そして、教師の仕事を見ているのは、子供たちである。ということは、教師というのは「監視」される立場にはないということなのだ。そして、しばしばそのことに甘えがちであり、家庭に、子供に責任を押し付けがちなのである(そういえば昔、日本の学校は「サービスをしている」という意識が低いため、教師の仕事の質も低い、という評価がなされているという話を聞いたことがある)。そうではなく、「教える」ことが仕事なのだから、「一生懸命」やるだけではなく、「分からせ」なくてはならないのだ。

また、教室の生徒全員に対して教師としての仕事を全うするのだ、という意識の高さにも驚いた。近年特に、スローラーナーや知的障害を持つ子どもたちへのケアが叫ばれ、どうしてもそちらにだけ意識が行きがちであるが(もちろんそういった学習に遅れのある子へのケアは最大限にされなければならない最低限度のことではあるが)、著者の温かな眼差しは、決して教室のある一定のできる子どもたちに、教師が不在であるかのようには感じさせない。できる子もできない子も、全員が夢中になって全力で授業に参加し、他人と自分を比べて卑屈になることもなく、自らの能力を一段でも二段でも引き上げられる。そのような授業をやらなくてはいけない。そしてそれを可能にするのが、著者の推進する単元学習なのである。

そして、これは著者の教えの大きな部分ではないが、「自分でうまくいった、と思ったことは書きとめておいて、後で眺めてみる」というのは、先日知った梅さだ(木へんに貞)忠夫先生の、「物事は気臆せずに記録する。”自分”というものは、時間がたてば他人と同じだ」という考え方とリンクした。情報社会の今を生き抜く術であり、工夫である。なるべく実践に移していきたい、最先端に共通する先人の教えであると思う。

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