2012年4月29日日曜日

ボランティア考察記①

最近、ある中学校と某所でボランティアを始めました。

特に中学校では授業の中に入り、ティーチングアシスタントとしてお手伝いをさせていただいています。


まだ始めたばかりなのですが、二つほど感じたことがあったので、ここで整理のためにも書いてみようと思います。




①生徒指導って難しい

まず最初に感じたのは、生徒指導って学校の色がでるな、ということでした。

ボランティア先の学校では、うるさい生徒がいません。
授業前は静かに着席して待っています。
これには他のボランティアの人たちもたまげていました。

そして授業のお手伝いをしていたときでした。
明らかに生徒指導担当の先生だな、という方が教室に入ってきて、少しけだるそうにしていた生徒に、「どうした」と声をかけていました。
私は中学生のときにこのようなことがなかったので、またびっくりしてしまいました。

学校の方針がでるというのは、きっとこのことなのだろう、と感じました。
どういった生徒を育てたいのか。それは、学校ぐるみで統一見解があるべきなのかもしれません。
そうでないと、生徒もどう育っていけばいいのか、混乱してしまうのかもしれません。
先生の価値観がでるところであるからこそ、きちっと芯の通った指導をしたい、と思いました。



②習熟度授業について

英語の授業は、習熟度別で行っているようです。
先日、中3基本レベルの授業のお手伝いをさせていただくことになりました。

そこで感じたのは、「中3という学年」と「生徒たちのレベル」との葛藤でした。
正直言って、音読もままならない生徒たちにこの教材をやらせなければならないのか、と感じました。
習熟度にしたところで、本当にその生徒たちのレベルに合わせた教授をじっくりすることは、現場では難しいのかもしれません。

さらに言ってしまえば、実はその習熟度集団の中でも、結構顕著なレベルの差が見られました。
それも、先生の対応をさらに難しくさせている要因かも知れません。





とりあえず、二つともまだ始めたばかりなので、僕も微力ながらできる限りのサポートをしていきたいです。そのなかで、こうして学びも汲み取っていければ、と思います。


ちなみに、外ではハエが飛んでいます。外で飛んでいるのに、僕の部屋の中まで羽音が聞こえてきます。まだ四月なので「五月蝿」くしてほしくないものです。

お後がよろしいようで。

2012年4月7日土曜日

個人的「〇〇人」論の恐怖

「グローバル社会」は、時代を象徴するような言葉の一つとなった感があります。
それとともに、四方八方で「〇〇人はこうこうな人種」といったコメントを聞くようになりました。(というよりむしろ大人になって周りに国際経験を積んだ人が多くなってきたからかな?)
確かに世界はどんどん小さくなってきているので、ある程度「〇〇人はこうこうだ」というイメージを各自持っておくことは大切かなと思います。
それを持っていないと、文化間でコミュニケーションの仕方や常識が異なりすぎて、摩擦を起こしてしまいかねない可能性があると考えるからです。これは個人的な経験も混ざっていますが。


ただ、個人的経験を過剰に普遍化するようなコメントもあり、少し怖いですね。
これは、インターネット上だけでなく、普段のカジュアルな会話等も同様に感じることです。


「〇〇人」の中にも当然いろいろな人が存在しています。
従って、個人的な経験のみで「〇〇人」を正しく抽象化することは、かなり難しいのではないでしょうか。


先日、友人が「〇〇人はうるさい」ということを言っていました。
どうやら旅行先で、路上で大声で電話越しに会話をする〇〇人が多かったと感じたようです。
しかし、それだけで「〇〇人」を語ることは、かなり尚早なのではないかと感じました。
なぜなら、彼の「〇〇人」に対する経験値は「旅行先」の「路上」に限定されるからです。


上の例は少し極端でしたが、しかしこのような論調は少なくないように感じられます。(これ自体狭い経験から抽象化し過ぎている例かもしれませんが)
人々の言動や振る舞いは、場所、気分、体調、話している言語等、多くの要素によって変化します。
それらの場面での彼らを全て含めて、「〇〇人」を語らなければ、失礼だと私は思います。
さらにいえば、もっと大人数のサンプルを、幅広いバックグラウンドから選び、その人たちの特性を調べることが、「〇〇人論」の要件であると思います。


グローバル社会で、最も避けるべきなのは、文化間の摩擦だと思います。
安易な「〇〇人論」の発信は、残念ながら誤解を生むだけだと考えます。従って、各々の持論はもう少し節度を持って語られるべきではないでしょうか。

...という自らへの戒めでした。