2012年6月11日月曜日

教育実習一日目の悲劇

こんばんは。


実は今日から教育実習だでした。


そして私は事前に英語Ⅰの授業案を2つ用意していました。


しかし今日指導教員の先生のご好意により、
Part一つに2時間かける
ということになりました。
(Partは一つのLessonを4つに分けたものです)


二つの授業案は晴れて御蔵行きとなりました笑

もちろん担当の先生が僕の研究授業を考えてくださって
ご配慮していただいたことには心から感謝しています。



ということで今日の問いかけは、
「Part一つに二時間使えたとしたら、何をしますか?」
ということです。


とても贅沢な悩みなのですが、ちょっと内容に悩んでいる今日この頃です笑

せっかく二つあるなら、皆さんならどのようにして有意義に使いますか?

2012年4月29日日曜日

ボランティア考察記①

最近、ある中学校と某所でボランティアを始めました。

特に中学校では授業の中に入り、ティーチングアシスタントとしてお手伝いをさせていただいています。


まだ始めたばかりなのですが、二つほど感じたことがあったので、ここで整理のためにも書いてみようと思います。




①生徒指導って難しい

まず最初に感じたのは、生徒指導って学校の色がでるな、ということでした。

ボランティア先の学校では、うるさい生徒がいません。
授業前は静かに着席して待っています。
これには他のボランティアの人たちもたまげていました。

そして授業のお手伝いをしていたときでした。
明らかに生徒指導担当の先生だな、という方が教室に入ってきて、少しけだるそうにしていた生徒に、「どうした」と声をかけていました。
私は中学生のときにこのようなことがなかったので、またびっくりしてしまいました。

学校の方針がでるというのは、きっとこのことなのだろう、と感じました。
どういった生徒を育てたいのか。それは、学校ぐるみで統一見解があるべきなのかもしれません。
そうでないと、生徒もどう育っていけばいいのか、混乱してしまうのかもしれません。
先生の価値観がでるところであるからこそ、きちっと芯の通った指導をしたい、と思いました。



②習熟度授業について

英語の授業は、習熟度別で行っているようです。
先日、中3基本レベルの授業のお手伝いをさせていただくことになりました。

そこで感じたのは、「中3という学年」と「生徒たちのレベル」との葛藤でした。
正直言って、音読もままならない生徒たちにこの教材をやらせなければならないのか、と感じました。
習熟度にしたところで、本当にその生徒たちのレベルに合わせた教授をじっくりすることは、現場では難しいのかもしれません。

さらに言ってしまえば、実はその習熟度集団の中でも、結構顕著なレベルの差が見られました。
それも、先生の対応をさらに難しくさせている要因かも知れません。





とりあえず、二つともまだ始めたばかりなので、僕も微力ながらできる限りのサポートをしていきたいです。そのなかで、こうして学びも汲み取っていければ、と思います。


ちなみに、外ではハエが飛んでいます。外で飛んでいるのに、僕の部屋の中まで羽音が聞こえてきます。まだ四月なので「五月蝿」くしてほしくないものです。

お後がよろしいようで。

2012年4月7日土曜日

個人的「〇〇人」論の恐怖

「グローバル社会」は、時代を象徴するような言葉の一つとなった感があります。
それとともに、四方八方で「〇〇人はこうこうな人種」といったコメントを聞くようになりました。(というよりむしろ大人になって周りに国際経験を積んだ人が多くなってきたからかな?)
確かに世界はどんどん小さくなってきているので、ある程度「〇〇人はこうこうだ」というイメージを各自持っておくことは大切かなと思います。
それを持っていないと、文化間でコミュニケーションの仕方や常識が異なりすぎて、摩擦を起こしてしまいかねない可能性があると考えるからです。これは個人的な経験も混ざっていますが。


ただ、個人的経験を過剰に普遍化するようなコメントもあり、少し怖いですね。
これは、インターネット上だけでなく、普段のカジュアルな会話等も同様に感じることです。


「〇〇人」の中にも当然いろいろな人が存在しています。
従って、個人的な経験のみで「〇〇人」を正しく抽象化することは、かなり難しいのではないでしょうか。


先日、友人が「〇〇人はうるさい」ということを言っていました。
どうやら旅行先で、路上で大声で電話越しに会話をする〇〇人が多かったと感じたようです。
しかし、それだけで「〇〇人」を語ることは、かなり尚早なのではないかと感じました。
なぜなら、彼の「〇〇人」に対する経験値は「旅行先」の「路上」に限定されるからです。


上の例は少し極端でしたが、しかしこのような論調は少なくないように感じられます。(これ自体狭い経験から抽象化し過ぎている例かもしれませんが)
人々の言動や振る舞いは、場所、気分、体調、話している言語等、多くの要素によって変化します。
それらの場面での彼らを全て含めて、「〇〇人」を語らなければ、失礼だと私は思います。
さらにいえば、もっと大人数のサンプルを、幅広いバックグラウンドから選び、その人たちの特性を調べることが、「〇〇人論」の要件であると思います。


グローバル社会で、最も避けるべきなのは、文化間の摩擦だと思います。
安易な「〇〇人論」の発信は、残念ながら誤解を生むだけだと考えます。従って、各々の持論はもう少し節度を持って語られるべきではないでしょうか。

...という自らへの戒めでした。

2012年3月18日日曜日

一日一個金言運動

いつかやりたい。


僕が考える金言というのは、いつの時代でも誰にでも、共感されたり、納得してもらえたり、感動されたり、愛される言葉。
陳腐な表現だけど、「言葉の力」を感じさせてくれる。

* * *
大学一年生の頃は、特に狂ったように探してたなあ。
Future starts today, not tomorrow.
 とか、めっちゃ好きだった。


* * *
最近ずっと好きでデスクトップに使ってた写真には、
Everyone is a genius. But if you judge a fish on its ability to climb a tree, it will live its whole life believing it is stupid. 
という、金言メーカー(smaller命名)のEinsteinの暖かいお言葉。

* * *
最近、新しい本を買いまして、名前は「某ファーストフード店の本」という名前の本なんですが、
そいつは壁紙が欲しいというので、いい壁紙を探していた訳ですよ。


で、せっかくだから金言が入っているものを、って久しぶりに探していたんですが、


いやーいい言葉のオンパレードでした。


特に今回一番気に入ったのはこの言葉。
A candle loses nothing by lighting another candle.
自分はできているかな、と猛省しました。

* * *
金言にもいろんなタイプのがあって、
アナロジー的なもの、ユーモラスなもの、さらには文構造が面白いものとか音的に難しいものまで、様々。

ごった煮みたいになるのは怖いけど、それでも言葉の楽しみを感じて、例文暗唱の励みになればいいなあ。実践はまだちょっと具体的イメージがないんだけれど。

そう、あくまで目的は「例文暗唱」ですよ笑。

2012年3月11日日曜日

CEFR-Jのシンポジウムに参加しての感想

今日(昨日?)、CEFR-Jのシンポジウムに参加してきました。
9日と10日の2日にわたって行われたのですが、私は10日のみ参加しました。
シンポジウムの目標は、CEFR-Jの取り組みを多くの先生に知ってもらうことと、どのような意義や影響があるのかを伝えることであったと理解しました。
特に、参加した2日目はワークショップ中心で、どのような指導法が可能なのかが、CEFR-Jのレベル別に紹介されていました。


シンポジウムに出た(しかも片日参加)くらいでは、到底その取り組みを理解できた気はしませんが、それでも思ったことを整理するためにこの記事を書こうと思います。

* * *

①CEFR-Jのポテンシャル

最大の特徴は、やはり'Can-Do' statementとしての性格でしょう。
つまり、learner-centeredである、ということです。

学習指導要領は、「教師が」何をどのように教えるべきかという視点で書かれています。
CEFR-Jの'Can-Do' statementでは、「学習者が」何をできるようになるのかが記述されます。
CEFR-Jによって、生徒は自分がどのような能力を身につけたいのか、そのニーズを把握し伝えることができるようになると考えられます。
また、学習者は目標を明確にとらえ、その達成度を自己評価することができます。
これらの点において、CEFR-Jは学習者が自分の学習の手綱を握ることを助けることができるのです。

また、教師にとっては、CEFR-JのHorizontal Aspects、つまり能力の区分の多さにより、狭い範囲だけの能力だけを伸ばしていないか、本当に自分が養いたい力を伸ばせているか確認することができるという利点もあると考えられます。

-CEFR-Jの、考えられる今後の課題

これは今回のワークショップを通じて感じたことなのですが、まだまだ日本人学習者の実情にあっているか疑問をかんじます。B1やB2のレベルは、大学生でもほとんど期待できない能力であり、ましてやC1,2は、ネイティブスピーカーのレベルであります。
すると、実質pre-AからB1までが日本人学習者のあてはまる範疇と考えられます。
これでは、すこし区分けが少ない気がします。より一層の細分化が必要だと思います。

* * *

今夜はカフェイン取っていないためもう非常に眠いです。付け足すかもしれませんが今日はここまで。おやすみなさい。

2012年2月26日日曜日

外国語科の目標から「外国語を通じて」をとってみた

問:次の文を読み、この文は下の選択肢のどれに関するものか答えなさい

言語や文化に対する理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り、情報や考えなどを的確に理解したり適切に伝えたりするコミュニケーション能力を養う。

a. 文化理解 b. 外国語 c. コミュニケーション d. 言語理解





特に解答はありません。ごめんなさい。

ただ少なくとも僕には外国語教育の目標にはみえません。
外国語という枠を外した、もっと大きな「コミュニケーション教育」にみえます。


* * *

上の文の最初に「外国語を通じて、」を入れると、高等学校学習指導要領外国語編第2節 目標の文言になります。

外国語を通じて、言語や文化に対する理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り、情報や考えなどを的確に理解したり適切に伝えたりするコミュニケーション能力を養う。

こうすると確かに、外国語教育の目標っぽいです。「外国語を使って達成する」からだと思います。

しかしそう見えたとしても、僕は問題あると思います。
外国語を通そうがなんだろうが、身につけるべき技能とされているのは「言語文化理解」「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度」「コミュニケーション能力」だからです。いずれも「外国語能力」という特定の能力ではありません。
外国語教育の目標なのに、目標の第一に「外国語能力」が出てこないのはやはりおかしいのではないでしょうか。

上の「目標」をみると、これを作った人たちは外国語教育を「色々なことを達成する万能ツール」と考えている、そんなように私には思われます。

* * *

因みに、個人的には外国語教育の過程で他国の文化理解や言語そのものに関する考察等を行うことは賛成です。
そういった要素は、外国語教育とはきっても切り離せない物だと思いますし、生徒たちの外国語学習意欲の向上にも資するのではないかと思います。

しかし、そういった第二言語学習の枠を超えた、またはそれと近接しているものの別個である要素が、目標に入ってしまうことは的外れのように感じます。
そうではなく、ある単元の教材のなかで、タイミング良く扱えそうであるとか、生徒の興味をひくことができそうな時に、積極的に扱えばよいものだと考えています。


学習指導要領は、つっこみどころ満載ですが、賛成・賛同するような文言も同様にある気がします。
権力批判はあまり好きではないのですが、面白そうだったので、ついかいてしまいました。。。



<参考>
文部科学省(2010) 『高等学校学習指導要領解説 外国語編・英語編』開隆堂



追記:指導要領は、最初にガイドラインとして何か提示した、というだけで勇気・価値あるものだと私は考えます。外の人は(私含め)外野からがいやがいや、いや、がやがや言いますが、それは最初に何かがあるからできるのであることが多いです。一からこういったものを作ることが難しいのは、大学の「中等英語科教育法(確か)Ⅲ」で経験済みです。

2012年2月23日木曜日

AとBの優劣関係は絶対普遍?

ずっとひっかかってきたことがある。


例えば、大学の授業で「ここはこうのほうがいいんじゃない」という指摘がなされる。
うーんそうかとうなずいて、「Aの活動」の下に「Bの活動の方がよさげ」とかかく。(実際は理由などをつける)
そして、教室には「Aの活動ではなく、Bの活動が良いのだな」という雰囲気ができる。


しかし、本当にそれでいいのか。


実際には、「その場、その目的でAという活動を行うより、Bの活動を行うべきだ」ということにしかならない。
よって、それを提示する側は、「メリット・デメリットを踏まえて使うことが大事」というのだ。


言いかえれば、「AとBの優劣関係は絶対的なものではなく、時と場合が変われば当然ひっくり返る可能性が生まれる」。


こういった気持があるからこそ、指導にいろいろなバリエーションを持ちたい。



上のことと関係して、一つとても印象に残っている言葉がある(多分どこかの教育系の研修だったと思う)。

「その場の状況に合わせて柔軟に対応する、というのは、決してその場で対応を考えるということではない。ありとあらゆる場面を想定し、対応策を考え、実際の状況に応じてその中から取捨選択して実行する、ということなのだ。」


実際にそんなことができるか甚だ心もとないが、一生心に刻みつけておきたい言葉である。