「グローバル社会」は、時代を象徴するような言葉の一つとなった感があります。
それとともに、四方八方で「〇〇人はこうこうな人種」といったコメントを聞くようになりました。(というよりむしろ大人になって周りに国際経験を積んだ人が多くなってきたからかな?)
確かに世界はどんどん小さくなってきているので、ある程度「〇〇人はこうこうだ」というイメージを各自持っておくことは大切かなと思います。
それを持っていないと、文化間でコミュニケーションの仕方や常識が異なりすぎて、摩擦を起こしてしまいかねない可能性があると考えるからです。これは個人的な経験も混ざっていますが。
ただ、個人的経験を過剰に普遍化するようなコメントもあり、少し怖いですね。
これは、インターネット上だけでなく、普段のカジュアルな会話等も同様に感じることです。
「〇〇人」の中にも当然いろいろな人が存在しています。
従って、個人的な経験のみで「〇〇人」を正しく抽象化することは、かなり難しいのではないでしょうか。
先日、友人が「〇〇人はうるさい」ということを言っていました。
どうやら旅行先で、路上で大声で電話越しに会話をする〇〇人が多かったと感じたようです。
しかし、それだけで「〇〇人」を語ることは、かなり尚早なのではないかと感じました。
なぜなら、彼の「〇〇人」に対する経験値は「旅行先」の「路上」に限定されるからです。
上の例は少し極端でしたが、しかしこのような論調は少なくないように感じられます。(これ自体狭い経験から抽象化し過ぎている例かもしれませんが)
人々の言動や振る舞いは、場所、気分、体調、話している言語等、多くの要素によって変化します。
それらの場面での彼らを全て含めて、「〇〇人」を語らなければ、失礼だと私は思います。
さらにいえば、もっと大人数のサンプルを、幅広いバックグラウンドから選び、その人たちの特性を調べることが、「〇〇人論」の要件であると思います。
グローバル社会で、最も避けるべきなのは、文化間の摩擦だと思います。
安易な「〇〇人論」の発信は、残念ながら誤解を生むだけだと考えます。従って、各々の持論はもう少し節度を持って語られるべきではないでしょうか。
...という自らへの戒めでした。
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