2012年11月26日月曜日

今考えていることをつれづれ書いていくシリーズ(Speaking指導)


「日本人は英語がしゃべれない」というのは良くいわれることです。
その是非に関わらず、今多くの人が英語スピーキング能力の向上を望んでいるように思います。
したがって、このことについて書いておくことは大切だと思い、今つらつらと筆を進めています。




僕は大学時代、ずっとESSという英語サークルに所属してきました。
僕の大学のESSは多分他の大学と異なっていて、スピーチセクションやディスカッションセクションに分かれておらず、ただただ英会話を楽しむサークルです。
そんなこともあり、英語専攻であることもあいまって僕の大学4年間はほぼ全て英語力、とりわけスピーキング力の向上に注がれてきました。




そこで僕は、スピーキング力は大学から集中的にトレーニングすることを提案します。
自分自身は英語専攻なのでこのようにいうのは適切ではないと思います。
しかし、他大学や他の専攻の人たちが、自分たちで危機感やモチベーションをもってスピーキング力の向上に取り組んでいる姿を見てきましたし、そういった人たちの英語力は意思疎通が可能なレベルでありました。
本当にそれが必要な人たちの上達は、速いし伸びもあります。
一方で、多くの「英会話がうまくなりたい人たち」は、憧憬の感情だけのような気がしています。
「英会話がうまくなりたい」と「英会話力が必要」は全く別次元であり、僕はスピーキング能力は後者だけトレーニングすればいいのではないかと思っています。




「英語教育大論争」という論争があったようですが、私はあの論争で、「英語は限られた人たちだけに集中トレーニング」という考えが好きです。
何故なら、義務教育においてなされる教育は万人が使う知識・技能だけでいいと思うからです。
英語は確かに今や避けては通れないものだと思います。
したがって「英語は限られた人に・・・」とはいいませんし思いません。
しかし英語のスピーキングはどうでしょうか。
ぼくは英会話やスピーキングをしないと生きていけない人間なんて、一握りだと思います。





従って、高校までの英語は今まで以上にインプット多量でいいのではないかと思っています。
しかし、インプットだけではインプットの質が上がりません。
簡単にいうと、英語を浴びても生徒達は覚えないでしょう。
「馬の耳に念仏」です。
したがって、「それを自らも使う」と思わせることが必要です。
そのために、生徒達に表現活動をさせたりライティングをさせたり、アウトプットの指導をするのだと思います。
スピーキング指導もここに位置して、スピーキング自体の完成度の目標は設けない。
生徒が英語の楽しみを感じモチベーションを維持する場、またはインプットの質の向上のため、と位置づけるのはどうでしょうか。






ライティングは、比較的高校生まででもやりやすいでしょう。
スピーキングと違い、即時性はないし、なにより成果物が残るため正確さの点検も比較的容易です。
正確です。最低でも正確にできる可能性が高いです。
しかし、スピーキングだとなかなか生徒の正確性を上げるのが困難に思います。
少なくとも現状の40人体制ではかなり難しいです。
従ってアウトプットの完成度はライティングで上げればいいと思います。
高校でその土台を作ること自体がそもそも大変ですが、ここができてくれば、それをスピーキングに繋げることは可能だと思います。
少なくとも「英会話が必要」な人が一定量のトレーニングを積めば可能であると僕は思っています。





僕の結論としては、英語スピーキング能力って一部の必要な人が大学などの環境でやればいいのではないかな、というものです。
そして、中学校・高校ではスピーキングは機会として設けるが、スピーキング能力自体の向上は求めない(発音はのぞく、発音トレーニングは必要)。
もしかしたらそれでも「中学校・高校の英語の授業でもっとスピーイングの指導もしてくれてたら・・・」と思う人もいるのだろうと思います。
その人たちには、上の理由で納得してもらうしかないと、今の僕ではそんなことしかいえません。
もしくは、お金がかかる英会話スクールとかではなく、公共の施設として気軽に英会話が楽しめる場が増えればと思います。
中学生や高校生のみならず、大学生や社会人にとっても。
幸せなことにそういった取り組みをしている団体を僕は知っています。
すばらしいと思っていますし、今後このような取り組みが増え行けばと思います。




こんなところで第一回は筆を置きます。
もう既に僕の考えってこんなもんかと首を吊りたくなっているのですが、続けます。
多分僕はMなのでしょう。初めて知りましたが。

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